砦に時の声が響き、都の北の一角は再び反乱軍の手に落ちた。新帝の御世は短く、続く乱世に終止符が今、打たれようとしている。砦の主は万感の思いで、敵の大将に対面していた。黒い甲冑、浅黒く日に焼けた精悍な面立ちの中に、覚えのある高貴な風貌を看てとった。
「まさか…あんたは……」
城砦を守る将軍とも思えない、ぞんざいな言葉使いであった、しかし、それはその将軍生来のもので、主を転々とするさなか、いささかも変わる事のなかった、彼のポリシーであった。
「先の帝のお血筋か?」
もちろん、彼の指す先の帝、とは、簒奪政権をたてた新周の皇帝、幻影達ではない。
敵の大将…、黒い甲冑の青年は黙って頷いた。柔らかな相貌と、どこか強い意志を秘めた眼差しを、将軍は確かに見ている、覚えている。
「私は皇帝の妻、銀正妃です、貴方たちの大将に話があります!」
そう言って、一喝している様はまぎれもなく正妃の風格を備えていた。少女にしか見えない彼女を、混沌の元へ案内した一兵卒こそ、その将軍……そして、元々は、瓜祭村義侠団のならず者の一人であった。混沌が去ってからも、幻影達が討たれてからも、必死で生き抜き、今の地位まで昇りつめた。砂上の楼閣に過ぎない、…そう思いながらも、彼は生きるために必死だった。しかし、始まりからして失敗していたのだ、安寧な一生など送れるはずが無いと、誰よりも、彼自身が良く知っていた。群雄割拠する乱世、形骸化された、どこの馬の骨ともわからない皇帝、昨日とまったく違う命令の下る今日を、ただただ生き抜いてきた、…そして、今、彼は、始まりに戻された気持ちになっている。目の前にいるのは、恐らく彼らが引きちぎり、踏み荒らしたかつての素乾国皇統最後の生き残り。
「兵たちは、逃がしちまった、ここにはもう砦としての意味をなさねえ、あとは都まで一本だ、北師はもはやまる裸……、急がねぇと、今の皇帝も逃げ出すぜ」
自嘲気味の、押し殺すような声だった。素面のはずなのに、酩酊しているような錯覚に陥る。
「あとは、俺の首をとったら仕舞いだ」
おどけたように、両手を広げ、無抵抗な様を見せつける。
黒い甲冑の青年が、腰の剣に手をかけた。武術家では無い、修羅場をかいくぐってきた、歴戦のつわものの、殺気のこもった構えであった。
「あなたに恨みは無いが……、混沌師父がよろしくと申しておった、最後になるが…確かに伝えたぞ」
ああ、そうか、混アニぃは生きていたのか…。
将軍…否、瓜祭村生まれの男は、己の若き日の、頼りの兄貴分達と、無法をしていた過去を振り返る。
平勝のアニキも、なんだって、天下なんて獲っちまったんだろうなあ……。
「なあ、大将よ、最後にあんたの名前を教えちゃくれねえか、先にあの世に行っちまった仲間達に教えてやりてぇんだ」
押し殺した涙声からややあって、黒い甲冑の青年が静かに答えた。
「……黒耀樹、父の名は、双槐樹、母は銀河」
老いた大将は、目を伏せ、感慨深くため息をつき、言った。
「…そうか、やっぱりなあ」
無言ながらも、言葉の余韻が伝わってくるのを感じながら、青年は言った。
「俺もあんたを知っている、母が感謝をしていた、父を弔ってくれたのはあんただそうだな」
すると老大将は少しおどけて、
「怖がりな性質でね」
と、言う。そうした言葉の緩急から、一筋縄ではいかない事が知れる。老いたりとはいえ、今まで長生きをしてこれたのは伊達ではなかった。
「俺がしたいのは、国を壊すことでなくて創ることだ、なるたけ殺しはしたくないが、あんたを生かしておくと、俺の武術の師が納得せんのでな」
かまわずに青年が言い放つと、老大将は本当に我知らぬ、という顔をつくる。
「あんたの師匠?…はて、俺ぁ人からそうそう恨みを買う覚えは無いんだがな」
もはや隠し事をする気は無く、青年は答える。
「かつてこの砦を守っていた、王斉美の忘れ形見…と、言えばおわかりか?」
そしてそれはこの老大将とて同様であった。懐かしい名に驚きの声をあげた。
「王斉美将軍か!……ああ、立派な方だった、侠気のある人だった…、うれしいねえ、そうそう無駄死にってワケでもなさそうだ」
本当に、あまりにもうれしそうな顔をしたので、青年…黒耀樹はわずかにためらったが、見上げた老大将は、満ちた顔で、剣が振り下ろされるのを待っている。カチャリ、と、柄にあてた腕が動き、柄からのぞく抜き身の刃がキラリと光った。
空が高く、荒れ果てた都で、それでも黒耀樹は即位した。乾朝太祖、神武帝の誕生である。
都から遠く離れた地で、老いた男が、村の入り口に辿り着いていた。懐かしい、知己の下へ。
三度死にそこなった彼は、あとわずかもない余命を、生まれ故郷で過ごす事となる。
老いた男は、澄み切った空に目を細め、太陽を仰ぎ見、再び一歩、歩き出した。
(了)
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